2023.11.23 長谷寺~鎌倉大仏~鶴岡八幡を訪問した・
最下段に、楠木ガイドのレポートを追加しました。

往古より「長谷観音」の名で親しまれる当山は、正式には「海光山慈照院長谷寺」と号します。
開創は奈良時代の天平八年(736)と伝え、聖武天皇の治世下に勅願所と定められた鎌倉有数の古刹です。本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ9.18m)の尊像で、坂東三十三所観音霊場の第四番に数えられる当山は、東国を代表する観音霊場の象徴としてその法灯を今の世に伝えています。緑深い観音山の裾野から中腹に広がる境内は、四季を通じて花が絶えることのない「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ばれ、花木の彩りがご来山者の心を和ませます。諸堂のほか鎌倉の海や街並みが一望できる見晴台があり、さらに眺望散策路に上がると遠く相模湾の眺望と共に梅雨に映える40種類2500株のアジサイが織り成すその風情が、鎌倉でも有数の景勝地と謳われています。
鎌倉を代表する名所となっている長谷の高徳院の本尊である大仏は、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時の晩年になってから作り始めた。
吾妻鏡」によれば、北条泰時の時に、淨光という僧が諸国を勧進して浄財を集めて歩き、暦仁元年(1238)3月から大仏と大仏殿を造り始めた。北条泰時もその建立に援助をした。そして大仏開眼は5年後の寛元元年(1243)6月11に行われた。泰時は前年の6月に62歳で亡くなった。この時、建立した大仏は木造であった。そして4年後の宝治元年(1247)にこの大仏が暴風雨の為に倒壊したので、建長四年(1252)にあらためて金剛の大仏が造営され始めた。大仏殿は建武二年(1335)と志安二年(1369)の台風で倒壊。更に明応四年(1495)の大津波で押し流され、以来、現在の様な露座の大仏となってしまった。本尊の大仏は阿弥陀如来。阿弥陀如来の高さは12.38m、総重量は121トンである。鎌倉の大仏は鎌倉の仏像の中で唯一の国宝。

鶴岡八幡宮は「鎌倉」の基礎になった神社です。その昔、関東で勢力を拡大していた源頼朝(みなもとのよりとも)が祖先ゆかりの「八幡宮」を現在の場所に移して鶴岡八幡宮の基礎を作りました。ちなみに鶴岡八幡宮が建立されたのは今からおよそ850年前、1180年のことです。鎌倉の発展と妻・北条政子の安産祈願を込めて、源頼朝みずからが指揮をとって造営を進めたといわれています。
鶴岡八幡宮は鎌倉時代以降、「鎌倉武士の守護神」として武士たちの信仰を集め続けてきました。鎌倉幕府の滅亡後は一時期活気が失われましたが、江戸時代になると徳川家康や歴代将軍が鶴岡八幡宮の保護・復興に取り組み、建物の修復や造営が行われています。
鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府を築いた源頼朝(みなもとのよりとも)公とゆかりの深い神社です。 鶴岡八幡宮の歴史は、源頼朝公の祖先・源頼義(みなもとのよりよし)が、由比ガ浜に源氏の氏神として八幡神を祀ったことからはじまります。 その後、1180年に源頼朝公が現在の場所に遷して、現在の鶴岡八幡宮の基礎が造られました。


楠木G、感想文

行楽シーズン真っ只中の祝日、車はやはり多いものの大きな渋滞もなく長谷寺に到着。ここで地元のガイドさんと合流し歩き始めます。長谷寺は「長谷観音」として関東の名刹として有名です。観音様の前ではやはり皆さんやはり身が引き締まる感じでした。 所々秋を感じながら観光客の流れに乗って歩き、鎌倉大仏に到着です。もともとあった建物は度重なる焼失にあい、現在のような姿になったとのことです。ちなみに大仏様の裏手のイチョウがとてもきれいに色づいていました。

鶴岡八幡宮まで少し距離がありましたが、初日のウオーミングアップにはちょうど良い感じでした。またまた観光客でごった返す中お参りす済ませて、稲村海岸を見ながら宿入りしました。