2021、05.07~10 フェリー2泊、宿舎1泊で熊野古道、大雲取越~小雲取越に斉藤ガイドが登ってきましたので掲載します。
サンサン山倶楽部として、中辺路、高野参詣道、果無越と熊野古道参詣道を辿ってきました、今回、大雲取越~小雲取越のキツイ参詣道でした。

大雲取越えは、熊野古道・中辺路の中で最も難所と云われ、アップダウンのきつい峠を数カ所越えるという内容、コースです。その中で越前峠から下る急坂は「胴切坂」と呼ばれ、かなりの健脚が必要です。
しかし、見所も多く、すばらしい見晴らしが楽しめる船見峠や、33体の地蔵がまつられている地蔵堂、大石に神々が座って談笑したといわれる円座石(わろうだいし)、その他、茶屋跡などがあります。  〈 歩行所要時間約8時間 〉


大雲取越のルート 体力度4 技術度2
  歩行距離14.5km、行動時間7.15時間、標高差計・上708m下978m
那智大社322m~那智高原~登立茶屋跡~舟見茶屋跡~色川茶屋跡~地蔵茶屋跡~石倉峠~越前峠841m・最高峰~楠の久保旅籠跡~円座石~大雲取登口~小口

青岸渡寺駐車場までは、道路狭く離合が難しいので、参道入口でバスから下車し、階段を歩く。(所要時間約15分)

大雲取小の登山口は青岸渡寺の右側のお土産屋さんとの間から入る。(熊野道の石の道標あり)

*登山口から船見峠までは急登で長い登り。
*地蔵峠から、石倉峠までの通常ルートは登山道が崖崩れの為、迂回路を登る。通常時間より40分かかる(20分が60分かかる。)
*楠の久保旅籠より先は、傾斜のある石畳が多く、苔むして滑りやすく、慎重に歩く必要があり、時間がかかる。(約60分気が抜けない。)
*小口下山口から小口自然の家は、下山口から目視が出来ずわかりづらい。

小雲取越
歩行距離13km、行動時間5.3時間、標高差計、上518m下521m
小口自然の家~桜茶屋跡~桜峠~石堂茶屋跡~賽の河原地蔵~百間ぐら~万才の峠~松畑茶屋跡~請川バス停・・・・大斎原(おおゆのはら)~熊野大社

バス停から登山道に入る道がわかりにくい、細い路地を入る
登山口から桜茶屋までは、急登で距離があり、予定の60分より15分時間がオーバー75分かかった。
*桜茶屋から桜峠までは15分の登りで、それからは心地よい、なだらかな尾根道で歩きやすい、
*請川バス停でトイレ休憩して、大斎原で昼食をとる。その後、熊野大社に参拝する。


熊野本宮大社HPより:
当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)の
ことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられ
るほどでした。
明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍
の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。
今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。
平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。 
八咫烏[編集]:Hpより
日本を統一した神武天皇大和国の橿原(現・橿原市)まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として八咫烏には篤い信仰がある。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味。太陽の化身で三本の足があり、それぞれ天・地・人をあらわす、といわれている[5]。また、JFA(日本サッカー協会)のマークも八咫烏であり、多くのサッカー関係者が必勝祈願に訪れている。ちなみに、サッカーを初めて日本に紹介した中村覚之助1878年 – 1906年)は那智町(現・那智勝浦町)の出身。JR西日本那智駅前には「日本サッカーの始祖 中村覚之助」と刻まれた顕彰碑がある[6]

熊野古道 伊勢路は福岡県の「緊急事態宣言」、三重県、愛知県の緊急事態宣言発令で、10月に変更しました。