2021.05.09 殿様街道を歩いてみました、栗林、松本コンビのレポートを掲載します。
国道502~旧都松小・殿様街道入口~茶屋(民家)・殿様乗馬踏石~芝尾一万部塔~往復~板碑~陣山~一ノ瀬
・・・・・約4km、行動時間3時間(昼食含む)、・・・・・体力度1技術度1
その前に、二重の峠を歩いた前P、豊後街道のHPをご覧ください。

殿様街道
臼杵市指定文化財の資料によると、“江戸時代、臼杵には「末広方面から大分に抜ける府内城路」、「武山方面から三重、竹田へと向かう岡城路」、「海添から津久見、佐伯へとゆく佐伯城路」という三本の幹線道路がある。”となっている。今回計画した殿様街道は、“臼杵城下と竹田城下をつなぐ岡城道の一部で、豊後一の瀬と野津中央公民館のあたりの区間の古い道のことを「殿様街道」と呼んでおり、現在の国道が整備されるまで、臼杵と野津をつなぐ重要な道路して使われていた。
・殿様街道入口には「吉四六さん」の紹介がありました。
・街道は草が結構伸びていましたので、マムシに注意しながら歩きました。
・林道が交差しているので山容(MAP)に沿って進まないといけません。
・茶屋跡(民家には)には、殿さまの踏み石があり、気さくな家人(オバチャン)が
 いらして、話しかけられました。
・芝尾一万部塔は民家の横から往復しました、10分程度です。

その周辺には、南北朝時代(14世紀)ごろからの文化財(仏教関係の石造物)などがたくさんある。”などと、紹介されている。 芝尾一万部塔:説明板によると“この石塔は凝灰岩で作られており、永禄3年(1383)の記銘が残っている。・・途中省略・・「一乗妙典」とは法華経を現し、「一万部塔」とは、その法華経 6万9384文字を小石に一文字ずつ書写したものを埋納した場所に立てた塔のこと。”などとなっていた。 有難いお経の石が、ここに収められている。

板碑:この板碑は凝灰岩でできており、自然石の形状を巧く利用した造りとなっている。板碑には「阿弥陀三尊」の梵字が彫られ、康永2年(1343)であろう。”などとなっていた、今から、およそ670年前のこと。この地にも、集落があったのだろうか。

陣屋跡:頂上の真下にも横堀が巡らされており、陣屋跡と云う、雰囲気は今なお伝わってくる。 その「若山の陣」は「古陣」とも呼ばれ、慶長5年(1600)関ケ原合戦の頃、徳川家康に味方した岡城主・中川秀成が、石田三成方の臼杵城主・太田一吉を攻めた際、前進基地として築いた陣地跡と云うことらしい。 天正14年(1586)、大友宗麟と島津軍との闘いより10数年後のできごと。やがて、徳川家の時代となって戦国時代は終わった。その後、参勤交代も定着し、文字通りの「殿様街道」となり、人々の往来にも使われるようになった。
陣屋跡の道標より、陣屋までは笹が膝ぐらいまで伸びていてルートが見えない、被ったルートを参考にしながら進むが、陣山山頂の看板(道標)なく寂しい限りです。
陣山~一ノ瀬は一旦陣山の道標まで戻り、林道を下ることにしたが、道がはっきりしないとの市役所の案内でしたが問題なく一ノ瀬まで下りてきました。縦走できる交通手段があるならば、縦走がベストでしょう。

臼杵は臼杵石仏の国宝があり、臼杵城~二王座などの歴史や、ふぐも、黄金飯、も有名。もちろん鎮南山の登山も可能。

臼杵石仏
臼杵石仏:古園石仏大日如来像に代表される国宝臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。誰がどのような目的で造営したのか、はっきりとしたことは分かっておらず、今もなお多くの謎に包まれています。
その規模と数量において、また彫刻の質の高さにおいてわが国を代表する石仏群であり、平成7年6月15日には磨崖仏としては全国初、59体が国宝に指定されました。石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられています。
それぞれに傑作秀作ぞろいであり、表情豊かな御仏の姿は、みる者の心にやすらぎをあたえてくれます。その後、平成29年9月に古園石仏群の入口にある2体の金剛力士立像が国宝に追加指定され、現在は61体すべての磨崖仏が国宝に指定されています。
最初の一枚は、テレビで紹介された宿泊箇所の願掛け大仏。

臼杵城~二王座巡り
臼杵城:戦国大名大友宗麟が築城した臼杵城は、文禄2年(1593年)以降、福原直高、太田一吉が相次いで城主を務めたのち、慶長5年(1600年)からは、美濃から入封した稲葉氏が廃藩置県まで15代にわたってこの城を居城とし、臼杵藩の支配にあたってきました。
この城は丹生島に築城されたこと、また、島の形が亀の姿に似ていたところから別名、丹生島城とも亀城とも呼ばれていました。廃藩置県後、明治6年(1873年)明治政府は臼杵城の廃城を決定し、取り壊され「公園地」に指定され、現在は臼杵公園として市民の憩いの場となっているとともに、春は桜の名所として市内をはじめ県の内外から訪れる花見客でたいへんな賑わいを見せます。

 

大友宗麟は享禄3年(1530年)、大友家第20代家督の義艦(よしあき)の嫡子として府内(大分市)に生まれ、元服後は義鎮(よししげ)と名乗ります。弘治2年(1556年)臼杵湾に浮かぶ天然の要害とも言える丹生島に城を築き、府内の館から移り住んだことにより城下に町が形成されました。これが今日、臼杵のまちの礎となったものです。
宗麟は、海外貿易の振興をはかり、外国の風土、学問、宗教、文化に興味を示して積極的に吸収し、理解に努めたということは、当時、すでに国際人としての感覚を身に備えていたと見ることができます。
永禄3年(1560年)には九州六カ国(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職と九州探題についています。
晩年になると宗麟のキリスト教に対する熱意が高まり、天正6年(1578年)臼杵の教会において洗礼を受け、ドン・フランシスコと命名されています。この後、日向国の務志賀(むしか・現、延岡市)にキリスト教の理想郷を設置するため出陣しましたが、耳川の合戦に失敗してからは急速に国力を弱め、失意のうちに生涯を終えています。まさに波乱万丈の一生を送った名将といえます。       (瑞峰印蔵)